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史跡にコスモスが咲きました

秋の櫻はコスモス。晩秋の紅葉の前に仲秋の太宰府では、史跡地が白やピンク、真紅のかれんなコスモスに彩られて、訪れるひとびとの目を楽しませてくれます。

◆ 観世音寺周辺
奥の杜に宝蔵庫があります  太宰府天満宮の参道から歩いて10分。“歴史の散歩道”を白川沿いに辿って、旭地蔵の前を通り、観世音寺の裏手にでると、お寺のこんもりした森の手前に、一面に広がるコスモスの花畑が目に飛び込んできます。
 “史跡を美しく”と、地元の方々が播き、育てました。10月末までが見ごろです。
 
 いまは100m四方ほどの寺域にクスの大木が生い茂り、講堂、金堂、鐘楼、宝蔵庫がこじんまりと建っていますが、746年の落慶法要から約800年の間は、方3町(324m四方)の境内に七堂伽藍が建ち並ぶ、豪壮な寺院でした。いまコスモスが咲いている辺りもその寺域だったのです。

 660年に朝鮮半島百済王朝が新羅・唐の連合軍に滅ぼされ、その遺臣達が百済復興の救援をわが国に求めてきます。そこで大和朝廷はこれに応じて、67才の女帝斉明天皇が自ら2万の百済救援軍の指揮を執って出陣しました。661年3月のことです。
 ところが斉明天皇はその年の7月に本営「朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)」(福岡県朝倉町)で亡くなり、また、この救援の戦いは663年に日本水軍が白村江で唐水軍に大敗し、百済が完全に滅亡して終わります。

 その後、皇位を継いだ天智天皇は出陣中に亡くなった母帝斉明天皇の冥福を祈るために、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を本尊とする寺院の建立を発願されました。それから80年ほどかかって出来あがったのがこの観世音寺です。

 いま残っている創建当時のものは、日本最古で国宝の梵鐘、五重塔の心柱の礎石、それに南門、中門、講堂、僧房の礎石です。
 また宝蔵庫には平安時代、鎌倉時代初期の仏像17体が安置されています。いずれも重要文化財です。

 なお、いま建っているのは江戸元禄時代に再建されたお堂で、創建時の三分のニほどに縮小されています。

 大宰府政庁の東、歩いて5分ほどのところにある観世音寺は、政庁とのつながりが深く、とくに761年に戒壇院(僧に戒律を授ける寺院)を子院に加え、いよいよ格式の高い権威のある「府の大寺」になりました。



◆ 水城(みずき)跡周辺
このコスモス畑は濠の跡です  天満宮から大宰府政庁跡を通って車で10分ほど、国分寺跡への交叉点を過ぎると、左手に、水城跡南面のテラスにつながる広いコスモス畑が目に入ります。
 そしてこのコスモス畑は北面にも広がっていて、緑の木立に覆われた土塁が連なる水城跡が、彩りあざやかなコスモスの海に浮かんでいるように見えます。
 これも地元の方々が播いて、育てました。

 日本書紀の天智3年(664年)の項に、「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城という」とあります。その前年に滅亡した百済からの亡命高官が指揮をして構築されました。

 朝鮮半島から襲ってくる新羅・唐軍の侵攻を防ぐのが、この水城の役目です。長さが1.2km、テラスを含めた基底巾80m、北縁に沿って高さ14mの土塁が連なり、その北側(博多側)には巾60m、深さ4mの溝を掘り、ここに土塁の底に埋めこんだ木樋を通して水を流し込み、濠を作っていました。

 とくにこの土塁は、版築(はんちく)といわれる工法の盛り土で、一番下に生木を敷き、その上に粘土と砂を交互に敷き詰め、それぞれの層を強く圧し固めて土塁を積み上げて行く方法です。
 いまでも高く評価されている盛り土の工法で、1,300年もの間、持ち堪えてきた鍵もここにあるのでしょう。

 先人達の技術の粋がこの“特別史跡水城跡”なのです。


◆ コスモス情報(08年)

 今年(08年)は10月末になっても、まだ例年より暖かい日がつづいています。

 コスモスは少し播き遅れましたので、ようやく咲き揃ってきたところです。11月上旬ごろが見ごろでしょう。

 秋晴れの日には、“秋の櫻”を楽しむ人々で賑わっています。





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