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万葉集には、大宰府とその周辺の筑紫で詠まれた和歌が320首、また筑紫以外の地で筑紫のことを詠んだ和歌が55首載っています。詠み人は合せて80人ほど、万葉筑紫歌壇といわれています。いまから1,300年の昔、古都大宰府は文化の最先端でもありました。万葉集からは当時の人々の姿が、その思いが浮かび上がってきます。 太宰府は万葉のふるさとです。平成15年1月には“2003全国万葉フォーラムin太宰府”が盛大に開かれました。また、合せて20基の万葉歌碑が建っています。“万葉歌碑めぐり”も太宰府観光のお奨めです。 ここでは、3人の万葉歌人をご紹介してみましょう。 |
| ◆ 大伴旅人(おおとものたびと) |
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727年(神亀4年)秋に、隼人征伐をした武将の大伴旅人は、大宰帥(そち、長官)として大宰府に赴任して来ました。63歳でした。 その時、部下の大宰少弐石川足人(たるひと)が問いかけました。 さす竹の大宮人の家と住む 佐保の山をば思ふやも君 (6‐955) 「佐保の山」とは都の旅人の邸があったところ。「大宮人が家として住んでいる佐保の山を恋しく思っているのではないですか」 これに応えて、 やすみししわご大君の食国(をすくに)は 倭(やまと)もここも同じとぞ思う 大宰帥 大伴旅人 (6‐956) 「わが大君がお治めになる国は、大和も九州も同じだと思いますよ」 大宰帥としての旅人の気概が現れています。 〔大宰府政庁跡の北縁に沿う“歴史の散歩道”の傍らに、この歌碑が建っています〕(写真@A) ところが、旅人はまもなく一緒にきた最愛の妻、大伴郎女(いらつめ)を亡くします。 愛(うつく)しき人のまきてししきたへの 我が手枕(たまくら)をまく人あらめや 〔別れ去(い)にて数旬を経て作る歌〕 (3‐438) 世の中は空(むな)しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり (5‐793) 手枕を交わす愛しい人はもういない、空しいこの世をうけとめる痛恨の思いが伝わってきます。 そして旅人は、 わが盛(さかり)また変若(をち)めやもほとほとに 寧楽の京(ならのみやこ)を見ずかなりなむ (3‐331) わが命も常にあらぬか昔見し 象の小川(さきのおがわ)を行きて見むため (3‐332) 沫雪(あわゆき)のほどろほどろに降り敷けば 平城の京(ならのみやこ)し思ほゆるかも (8‐1639) と、盛りをすぎた老境の心細さとともに、望郷の心情を詠っています。 また旅人は酒をよく好みました。 験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の 濁れる酒をのむべくあるらし (3‐338) なかなかに人とあらずは酒壷に 成りにてしかも酒に染(し)みなむ (3‐343) あな醜(みにく)賢(かさ)しらをすと酒飲まぬ 人をよく見れば猿にかも似る (3‐344) 「役に立たないことをくよくよ考えるより一杯の酒を飲むほうがいい」「人よりも酒壷になって酒に染まっていたい」「醜いことだ。賢さをひけらかす酒を飲まない人をよく見ると猿に似ているよ」 これらは「大宰帥大伴卿 酒を讃(ほ)むる歌十三首」にあります。酒を好むこころがよく現れている痛快な歌です。 3年の後、730年(天平2年)の暮れに旅人は大納言に任ぜられて都に帰ります。大宰府を離れるに当り、水城(みずき)の関で馬を駐めてふりかえり、送る人々のなかにいた親しかった遊行女婦(うかれめ)児島と別れの歌を交わします。 凡(おほ)ならばかもかもせむを恐み(かしこみ)と 振りいたき袖を忍びてあるかも 娘子児島 (6‐965) ますらをと思へるわれや水くきの 水城のうえになみだ拭(のご)はむ 大納言大伴旅人 (6‐968) 「あなたが普通のお方ならばああもこうもしますが、それでは恐れ多いと思って、振りたい袖もじっとこらえているのですよ」「立派な男子と思っているのに、別れの辛さに堪えかねて、水城の辺で涙を拭うのだよ」 旅人が大宰府で過した3年間の情感が溢れています。 〔“歴史の散歩道”の西端、特別史跡「水城跡」の東門礎石の近くに、この2首の歌碑が建っています〕(写真B) そして、都に帰った後も旅人は、 ここにありて筑紫や何処(いずく)白雲の たなびく山の方にしあるらし 大納言大伴旅人 (4‐574) と、筑紫、大宰府を懐かしんでいるのです。 〔天満宮から南に一丘越した九州歴史資料館の前庭に、この歌碑が建っています〕 なお、万葉集の編者大伴家持(おおとものやかもち)はこの旅人の長男です。12、13歳のころ、大宰府で過しました。後に家持は大宰府を回顧する歌を作っています。 追いて筑紫の大宰の時の春の苑の梅の歌に和(こた)ふる一首 春の裏(うち)の楽しき終(をへ)は梅の花 手折り招(を)きつつ遊ぶにあるべし (19‐4174) これは750年(天平勝宝2年)3月、家持が32、33歳の時の歌です。ちょうど20年前、730年(天平2年)正月に父旅人が大宰府で催した「梅花の宴」を思い起して詠いました。 |
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| ◆ 山上憶良(やまのうえのおくら) |
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42歳の時、遣唐小録として唐に渡り、老荘儒仏の学識を修めました。大伴旅人が大宰帥として赴任する前の年、726年(神亀3年)筑前国守に任ぜられて筑紫にきます。67歳でした。旅人より4歳年上です。 夫人が亡くなった悲しみを詠う旅人を目の当たりして憶良は、突き上げられるように哀悼の歌「日本挽歌」(5‐794)を詠い、旅人に贈ります。つぎの5首はその反歌です。 家に行きて如何にか吾(あ)がせむ枕ずく 妻屋さぶしく思ほゆべしも (5‐795) 愛(は)しきよしかくのみからに慕い来(こ)し 妹(いも)が情(こころ)の術(すべ)もすべなさ (5‐796) 悔しかもかく知らませばあおによし 国内(くぬち)ことごと見せましものを (5‐797) 妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干(ひ)なくに (5‐798) 大野山霧立ち渡るわが嘆く 息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る (5‐799) 愛妻を失った旅人の悲嘆を自分のものとして、ともに悲しむ憶良の心情が湧き上がってきます。「楝(あふち)」はセンダン、「息嘯(おきそ)」はため息のこと。 〔「大野山霧立ち渡る・・」の歌碑が、“歴史の散歩道”沿い、筑前国分寺跡脇の国分天満宮の境内に建っています〕(写真CD) また憶良は、筑前管内巡行の折、嘉麻郡(福岡県嘉穂郡)で嘉麻三部作を詠っています。有名な「子等を思ふ歌一首」がその一つです。 瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ 何処(いずく)より 来たりしものそ 眼交(まなかい)に もとな懸かりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ (5‐802) 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに 優れる宝子に及(し)かめやも (5‐803) 世間に生きる人間の愛情を詠い上げています。恋愛歌がなく人事詠が多い憶良の真骨頂です。 〔“歴史の散歩道”が坂本を通る辺りのオカッテンサマ(鬼子母神)のお堂の脇に「銀も金も玉も・・」の歌碑が建っています〕(写真E) |
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| ◆ 沙弥満誓(しゃみまんせい) |
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723年(養老7年)に「造観世音寺別当」に任ぜられて太宰府に赴任し、観世音寺の造営に辣腕を振いました。 出家前は笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)といい、美濃尾張の国守として木曽路を開くなどの活躍をした有能な役人でした。元明天皇の病気平癒を祈るために出家しました。 赴任の前に、筑紫への期待を込めて詠いました。 しらぬひ筑紫の綿は身につけて いまだは着ねど暖かに見ゆ (3‐336) 「綿」は真綿。当時、筑紫、九州の特産物で、奈良の都にも各地から届けられました。 〔“歴史の散歩道”から観世音寺の裏手に入ると、講堂横の池の畔、天智塔の横にこの歌碑が建っています〕(写真FG) また満誓は、730年(天平2年)1月13日に大宰帥大伴旅人が主宰した「梅花の宴」に参加して、梅花の歌を詠っています。 青柳梅との花を折りかざし 飲みての後は散りぬともよし 笠 沙弥 (5‐821) |
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