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万葉歌碑が建ちました

太宰府は万葉のふるさとです。

千三百年の昔、“遠の朝廷(とうのみかど)”があった古都大宰府の周辺には、筑紫歌壇といわれるほど、和歌を詠う人々が集まっていました。大宰府は文化の花開く「天下の一都会」(続日本紀)でした。

 万葉集には大宰府に関わる和歌が350首を超えて載っています。そして太宰府市にはいま、20基の万葉歌碑が建っています。

 こんど新しく大宰府史跡の周りに3基の歌碑が加わりました。17年11月21日(月)に大宰府政庁跡で太宰府市主催の「太宰府万葉歌碑建立除幕式」が開かれました。
 
 太宰府万葉歌碑めぐり・・・ 悠久の時を超えて、万葉びとのこころとふれあうのもお薦めの一つです。

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◆ 小野 老(おののおゆ)
後は大宰府政庁跡
 大宰府政庁跡をバックにして、大宰府展示館の脇に建ちました。

                   小野 老
  あおによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は
   咲く花の 薫(にほ)うがごとく
     今さかりなり
 (3ー328)

 〔奈良の都はにおうように花が美しく咲き、今真っ盛りです〕

 小野老朝臣(あそみ)が天平元年(729)に大宰少弐として大宰府に着任した時、歓迎の宴席で披露した歌とされています。

 揮毫は万葉学者の故犬養孝(いぬかいたかし)先生。昭和24年に作られた「万葉百首」のかるたの読み札に筆をとられたものを、そのまま拡大して碑文としました。

 犬養先生はお若い頃から幾十度となく大宰府政庁跡をお訪ねになり、その巨大な礎石の前にたたずんでは、古代の絵巻を繰り広げてくれる「遠の朝廷(とおのみかど)」を偲び、都から離れた官人の心情を思いやられておられました。

 
◆ 大弐紀卿(だいにきのきょう)
後は大宰府政庁跡
 大宰府政庁跡の北西にある梅林に建っています。

                   大弐 紀卿
  正月立(むつきた)ち 春の来たらば
    かくしこそ 梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ
 (5ー815)

 〔正月になり春がきたなら、このように梅を招いて楽しい日を過そう〕

 天平2年(730)正月13日、大宰帥(長官)大伴旅人邸で「梅花の宴」が盛大に開催されました。九州管内諸国の官人32名が中国渡来の梅を題に歌を詠んで、春の一日を楽しみました。
 
 この歌は開宴にあたり、主賓の大弐紀卿のあいさつとして、梅を客人のように見立てて歓迎したお祝いの歌とされています。

 万葉集のなかで最も華やかな「梅花の歌」32首の冒頭の第一首です。

 揮毫は太宰府市佐藤善郎市長です。
 
◆ 山上憶良(やまのうえのおくら)
後は学校院跡
 “歴史の散歩道”が観世音寺の西隣り学校院跡北辺を通るところ、観世音寺公民館前の広場に建っています。

  子等を思う歌 
 瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ
   いづくより 来たりしものそ 
     まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ
  反歌
 銀(しろかね)も 金(くがね)も玉(たま)も 何にせむに
   まされる宝 子にしかめやも
     筑前国守(ちくぜんのくにのかみ)山上憶良
 (5ー802)

 〔栗を食べると子供のことが思われる。栗を食べると一層子供のことが偲ばれる。子供はどこから来たものであろうか。眼前にむやみにちらついて、安眠させてくれることがない。
 銀も金も玉も子供の愛に比べれば、何になろうか。どんな秀れた宝も、子供には及ばない〕

 山上憶良は、神亀5年(728)7月21日に筑前国守として嘉摩郡(かまのこおり)を巡行しましたが、そのときに撰定した歌6首(800〜805)の中の2首です。

 始めに序文があり、釈迦の「衆生を等しく思うことラゴラ(釈迦の一子)のごとし」という一句を引用しています。子を思う親心を歌った万葉集のなかでも特異な歌です。

 揮毫は前西正寺住職、文学者山内勇哲先生です。   
   





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