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| 太宰府は史跡の宝庫です。「史跡めぐり」で廻るところが八十数ヵ所。しかもどんなに小さな遺跡でも、それぞれがはっきりした史実や伝承をもっています。お出でになった道すがら、そのあれこれを探訪なさってはいかがでしょうか。 |
★御神牛 どこの天神さまにも、牛の臥像があるのにお気付きでしょうか。太宰府天満宮でもあちこちに見かけます。とくに楼門の向かって右前にある青銅造りの臥像はピカピカ光って貫禄充分。これが「御神牛」、県指定文化財です。天神さまと牛。それにはこんな謂われがあるのです。まず菅原道真公は845年(承知12年)乙丑の年のお生まれでした。とても牛がお好きで、可愛がっておられたそうです。そして903年(延喜3年)に59才で配所で亡くなられた時、ご遺言に従って鬼門に当る宝満山の麓にご埋葬しようと、ご遺骸を牛車にお載せして来たところが、急に牛が臥せって動かなくなりました。引っ張っても叩いても動きません。それでここに葬ってほしいというのが道真公の思召しなのだろうとそこに葬りました。それが現在の天満宮本殿の場所と伝えられています。ご墓所の上のお社が天満宮なのです。そしてこの牛は道真公の思召しをうけた「御神牛」として崇められるようになりました。 1805年(文化2年)乙丑の年に博多の人々がこの神牛臥像を奉納しました。それ以来、悪いところを撫でると良くなるということで、お参りの人々に撫でまわされてピカピカに輝いているのです。 付記 この牛は帰り道の半ばで、ぱたりと倒れて息絶えたということです。その牛を供養する神牛塚がいまもその場所に建っています。 |
★麒麟(きりん)と鷽(うそ)
「麒麟(きりん)」は一見、馬に見えますが、首から頭がゴジラに似て異様で、それに尾が炎のようです。中国古代の想像上の動物で、聖人が現れて王道が行われる時に出現すると云われています。またとくに傑出した人を示すとも云われていて、ともかく道真公のご威徳にあやかって奉納されました。 この隣りの高い台座のうえに、「鷽(うそ)」が天を仰いでじっと立っています。卵形で、背の羽が十数枚反りあがっただけの簡素で、しかもいかにもゆったりと落ちついた姿です。 「鷽(うそ)」は天神さまのお使い鳥とされてきました。それは「鷽」の字が学の旧字「學」の字に似ていることから、学問の神さま道真公につながるものとされたのです。 また、天神さまは誠心の神として敬われています。それで、人が知らず知らずのうちについている嘘を、「鷽」に託して、天神さまの誠に変えていただこうという祈りがあると云われています。1月7日の夜に行われる「うそ替え」の神事はこの信仰から始まりました。このお祭りでは「木うそ」が使われます。これは5cmほどの皮を剥いだ朴の枝に鷽の頭と顔を描き、羽と背を削りあげて形を整えたものです。暗闇のなかで、この「木うそ」を替え合い、終わった時に神官が持ち込んだ「金うそ」を手にしていた人に幸運が授かるというお祭りです。幸せを呼ぶ鳥、それが「鷽」なのです。 |
★芭蕉と天満宮 松尾芭蕉は、まだ無名の修業時代に同行3人で天満宮に参詣しましたが、いい句ができなかったので、再度足を運んで吟じ直したいと思っていたと伝えられています。しかしその時を得ないうちに西国への旅の途中、大阪でなくなりました。その芭蕉の思いを偲んで蕉風俳諧(芭蕉風の俳諧)を受け継ぐ人々が建てた石碑が二つ境内に建っています。
「梅が香に のっと日の出る 山路かな」 芭蕉翁 この句は「わび」「しおり」を詠う芭蕉の俳句のなかで「軽み」を加えた代表作です。"のっと"という表現は、当時、滑稽俳諧(こっけいはいかい)と称して、もてはやされました。1789年(寛政元年)に博多の俳人グループ、俗仙庵自他邦連中(ぞくせんあんじたほうれんちゅう)が建立しました。境内には15碑の句碑や歌碑がありますが、これはその中で最も古い石碑です。
「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」 太宰府参りを念じながら、この辞世の句を遺して逝った俳聖芭蕉翁を供養して、没後150年忌に当る1843年(天保14年)10月に、菊屋平兵衛ほか、芭蕉を慕う人々が建てました。芭蕉はどんな天満宮の夢を見たのでしょうか。 |
★路傍の石二つ“三浦の碑”と“鶴の墓” 二つとも往来の激しい街道の傍らにポツンと立っています。見たところ何の変哲もない1m程の石です。どんな謂れ(いわれ)があるのでしょうか。 “三浦の碑” 政庁通りを政庁跡、観世音寺、市役所と辿り、白川(御笠川)に架かる五条橋を渡ると、橋の上流側の傍にあります。よく見ると「二見浦、和歌浦、箱崎浦」と三つの浦が読み取れます。その昔ここは“宰府参り(さいふまいり)”の潔斎の場所でした。お伊勢参りの五十鈴川と同じです。橋を渡ってこの白川の水で身を潔め、太宰府門前町の五条に入り“宰府往還”を通って天満宮のお参りをしたということです。 1830年(文政13年)に伊勢の二見ヶ浦、紀伊の和歌之浦、筑前箱崎の浦、この三ヵ所の“浦のおしおい(清浄な砂)”で、この地を潔めました。この行事の記念碑が「三浦の碑」なのです。裏面には務めた人々の名が刻まれています。また碑文は、博多聖福寺幻住庵の傑僧仙_和尚の直筆です。 いまは人よりも車の往来が激しい街道で、気がつかないで通り過ぎてしまいますけれども、往時の人々の天神参りへの思いがこもる碑なのです。 “鶴の墓” 榎社の真前、西鉄電車踏み切りの傍の道端に立っています。何も刻まれていない自然石ですが、これにはこんな云い伝えがあります。昔、飛騨の匠(たくみ)が木で大きな鶴を作りました。見事な出来栄えだったので、これに乗って飛んでみたいと思い背に跨ると、鶴はゆっくり羽ばたいて青空に舞い上がり、匠を乗せて唐土(中国)まで飛んで行きました。その後で帰る途中に、怪しんだ唐人から遠矢を射かけられました。その矢が当って、片方の羽が折れ飛びました。匠は片羽の鶴を操って何とか太宰府まで飛んできましたが、力尽きて鶴は榎社近くに落ちてしまいました。匠はこの鶴をいとおしく思い、手厚く葬って墓を立て飛騨に帰ったということです。 近くには鶴の屋敷、小字鶴畑と呼ぶ場所があります。また匠は博多の大工の名人との説もあり、それに折れ飛んだ片羽が落ちたところが「片羽の津」これが訛って「羽片の津」そして「博多の津」となったとも云われています。 |
★元寇と小弐資能・景資
1192年(建久3年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、その3年後に西国に詳しい武将武藤資頼(むとうすけより)を鎮西奉行に任じ九州の守護と行政に当らせました。武藤氏は太宰府に館を構えてその任を果たし、1226年(嘉禄2年)には朝廷から武将としては初めて「大宰小弐(だざいしょうに)」(当時は事実上の大宰府政庁長官)の官位を賜り、それから“小弐”姓を名乗りました。その子が“小弐資能”その孫、資能の三男が“小弐景資”です。 二代目の資能は、鎮西奉行の職、大宰小弐の位を継ぎ、立派に厳しくその任を果たしました。元寇が起きたのは77歳の時、職と位を長男経資(つねすけ)に譲った後でしたが、凛然たる気迫を秘めた気骨の武将で、文永の役(1274年)では、事実上の総指揮官として、息子の経資、景資を正面に配し、九州各地の武将を従えて奮戦し、元軍を撃退しました。また弘安の役(1281年)でも戦陣の先頭に立ち、壱岐の島の戦で傷を負って亡くなりました。84歳でした。 また三男の景資は、父資能の指揮下の若い頭領として働きました。文永の役の戦いで、強弓で馬上の敵将、劉復亨(りゅうふくこう)を射落として武勇をとどろかせたと伝えられています。 いま観世音寺の裏手、安養寺の跡と云われる山裾に、二つの墓がひっそりと立っています。向って左が初代、武藤小弐資頼の五輪塔(ごりんのとう)、右が二代、資能の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。いずれも七百年を超す時を経た姿です。とくに五輪塔は上の空輪、風輪が欠損していますが、隅切(すみきり)五輪塔と云われる珍しい形です。 また小弐家は歴代、中世の筑前武将の一人として名を残しており、太宰府の宝満山麓にその居城有智山(うちやま)城跡があります。 付記 小弐景資は元寇の後、間もなくして兄経資と家督を争い敗れて、岩門(いわと)城で亡くなっています。 |
★清明の井 今年(2002年)になってテレビや映画に“陰陽師(おんみょうじ)安倍清明(あべのせいめい)”の名前をよく見かけます。平安時代の人で、占いや天文の陰陽道に優れていて、式神(しきがみ)を自在に駆使して超能力を発揮したと伝えられています。花山天皇の譲位を天体の異常な現象から察知したり、藤原道長を呪いから救ったなど、その伝説はたくさんあり、江戸時代には浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎になってその名が伝わっています。世相が混沌としているいま、話題になるのも何かの因縁でしょうか。その安倍清明が開いたと伝えられる井戸が太宰府にあるのです。観世音寺から道を南にとり御笠川を渡り、国道3号線の高架下を抜けて筑陽高校のテニスコートを左に折れると、その突き当たりに大きな榎があり、その下の祠のなかにある井戸が「清明(せいめい)の井」と呼ばれています。どんな旱魃(かんばつ)でも水がかれることがなく、またこの水を飲むと安産するという信仰もあり、安産の井戸、長命の井戸ともいわれています。花崗岩(かこうがん)で組まれていて、正面の三角の板碑石(いたびいし)は、水を守る神様を現しているということです。ここにある由来は判りませんが、いつも清水が湧き出す井戸を安倍清明の霊力にあやかって名付けられたのかもしれません。古くから人々が幸運を念じながら大切にしてきた井戸なのです。 |
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