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武蔵と巌流島決闘

「遅いぞ。武蔵!」
「小次郎っ。負けたり!」
「なにっ」
「きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ」
「だまれっ。なにをもって」
「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。−鞘は汝の天命を投げ捨てた」
「うぬ。たわ言を」
「惜しや、小次郎、散るか。はや散るを急ぐかっ」
「こ、来いっ」
「−おおっ」
巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。その切っ先から、敵の武蔵が額を締めていた柿色の手拭が、二つに絶れて、ぱらっと飛んだ。しかし、その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。(参考文献:吉川英治 宮本武蔵より)



◆ 巌流島由来
思い出の宝物にするのもいいのでは・ 今、NHK大河ドラマ「武蔵」で関門海峡に浮かぶ小島が大変な注目を浴びている。
慶長17年4月13日、紛れもなく、関門海峡の小さな島で、武蔵・小次郎(巌流)の試合が行われた。巌流・佐々木小次郎は秘剣燕返しの名手、片や二刀流の宮本武蔵、天下無双の剣術家として知られる両雄の生死を賭けた真剣勝負。結果は武蔵の勝利に終わった。

 島の名前は、当時、船島とも向こう島とも呼ばれた。今では、決闘に敗れた小次郎にちなみ巌流島と呼ばれている。
船島の由来は遠くから見ると島の形が船のように見える。又、向こう島は豊前(小倉)の方から見ても、長門(下関)の方から見ても向こうにある島だからとのこと。
 現在の島の大きさは、約10万uだが決闘があった当時は1万7千uの小島に過ぎない。
決闘した頃、島はふたつにわかれていた。もともとは2つの島だったものを近代になって埋め立てた。
 
 今、巌流島には、武蔵・小次郎像、巌流島文学碑、佐々木巌流の碑、関門海峡を一望できる遊歩道・展望広場などがみどころである。又、人口海浜広場では、決闘シーンの寸劇も見られる。上陸記念に、巌流島奉行(下関市長)認定の「巌流島上陸記念認定書」を入手するのも楽しみである。



◆ 島に行くには
巌流も歓迎している 九州の最北端、鹿児島本線の始発駅であり、終着駅である門司港駅に降り立ち、100m左の船着場から巌流島行きの定期船が1時間おきに出ている。又、別に観光船も運航されている。
武蔵になったつもりで門司港から巌流島に渡航してみた。門司港からは定期船で巌流島まで、丁度10分。尚、関門海峡の対岸、唐戸(下関)からも同じく10分で渡れる。 
◆ 関門海峡の波を掻き分けながら
ひた走る海峡 フルスピードで関門海峡の波を掻き分けながら、一路巌流島をめざす。
関門海峡の潮流は鳴門海峡、来島海峡につぐ日本三大急潮で、最高東流れ8.5ノット(約16km)、西流れ6.5ノット(約12km)と、流れの速さや潮の方向も一日4回変化し、海峡内の操船が難しい。武蔵は伝馬船で唐戸(下関)から、船島をめざしたが、決闘後の潮の流れを計算したのか、あるいは、めざす巌流島へ行くのに潮の流れが予想外だったのか、あるいは遅れるのも作戦だったのか、決闘の刻限より遅れて着いたようだ。
実際に、武蔵が舟を漕ぎ出した出陣の場所や巌流島に足を運び、一度自分の目で確認し、当時の決闘シーンを思い浮かべてみてはいかがだろうか?
◆ 巌流島の決闘
剣客ゆえの宿命か 門司港の近くには、廻船問屋に宿泊し、決闘当日、船出した「宮本武蔵船出(出陣)の地」や、小次郎の弟子たちが巌流島の対岸にあたる彦島で決闘の行方を見守っていた場所「弟子待町」があり、ここからも巌流島が望める。又、武蔵の養子・伊織が藩主から拝領した「手向山」には、武蔵顕彰碑、佐々木小次郎の碑もあり、ここからも巌流島が一望でき、決闘の日には武蔵・小次郎祭りが盛大に行われる。

又、武蔵・小次郎の試合を許可した細川忠興が築城した「小倉城」にも直ぐに足をのばせる。
◆ ガイドこぼれ話
巌流島に立つ筆者 先日、熊本をはじめ遠くは京都、福井の観光客の皆さんが列をなして、巌流島をめざしていたのに出くわした。定期船や観光船がひっきりなしに、巌流島に到着し、更には釣り船に分乗した観光客も多く見られた。
又、別の日、観光ガイドボランティアの仕事で、大正ロマンの街「門司港レトロ」を案内したお客さんは、兵庫県のご一行だった。
 その中のお一人の中年女性は宮本武蔵の末裔に当たるとのことで、103mの展望ルーム(門司港)から見ただけだが、「小学生の孫が決闘のあった巌流島に試合に来たのよ。あれが巌流島ですか。見れて良かった。念願がかなったわ。」と大変喜んでいました。





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