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北九州市門司区に猿喰新田という地名があり、今から250年ほど昔の江戸時代中頃に度重なる飢饉に苦しむ住民を救うため、村の庄屋を辞めた「石原宗祐」が私財を投入して行った猿喰湾の干拓事業によってつくられたものである。 現在の長崎県諫早干拓事業と考えるとイメージが膨らむ、湾を閉め切ったことで満潮時には海水が浸透する、また干潮時には排水する、この調水ゲートを地元の人たちは「汐抜き穴」と呼び、現在も二か所が現存している。 汐抜き穴は平成15年に市の指定文化財(史跡)に認定されている。 猿喰新田は全国どこにでもある、のどかな田舎の田園風景だ、先人たちの生きるための地道な努力と工夫が自然を動かし緑豊かな農地を作造した。 ここでは、「猿喰新田と汐抜き穴」を回るコースを紹介しよう。 猿喰周辺地図 |
| ◆ 石原宗祐の碑 |
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県道、門司苅田線の猿喰交差点を海側に500mほど進むと小高い丘の上に門司北高校が見える、昔は堤防の西側端に当たる位置だ、高校の前に石原宗祐の碑があり、碑文には「石原宗祐は宝永7年大里村に生まれる、28才のころ庄屋となり村内各所の開拓事業を行う、宝暦7年村役を辞して猿喰開拓事業に専念する、特に堤防築造の大事業には私財を投じて実の弟資達氏と協力しこの大事業をなしとげ当時の猿喰村を築き上げた大人物である」とあり、宗祐は97才で亡くなるが、何でも96才で「田に畠に 打出の鍬の 小槌かな」という家訓を子孫に残している。 碑の前に立ち、この高齢まで現役で地域社会の発展に貢献したことに感動! |
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| ◆ 堤防と汐抜き穴 |
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宗祐碑の前を池に沿って進むと堤防の道である、全長426mもあり築造当時は困難を極め、石を積んだ舟を沈めて築いたと伝えられている。そのためか満潮時には海水が堤防の隙間から浸透し塩気の高い水が潮溜池にたまる、稲作にとって塩分は悪水であるため、潮溜池の塩水を抜くのにゲートを造ったものが「汐抜き穴」の由来である。 汐抜き穴は海水の水位が上がるとゲートを閉めて、下がるとゲートを開き新田の水や浸透した塩水を排水した。 当時は堤防の両端に四ヶ所のゲートがあった、穴は岩盤をくり抜き、30数メートルの長さがあり、堤防の両側には樋門番屋があり番者がいて朝夕、潮の干満に合わせゲートの開閉をしていたそうだ。 しかし、昭和28年の門司大水害で堤防が決壊し、その後現在の堤防に整備されたが、東側のゲート二ヶ所は当時のものが残されている。 |
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| ◆ 現在の田園風景 |
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この干拓事業によって開作面積は33町歩余り、宗祐は新田用の水を確保するために、堤防作造と合わせ四つの溜池(折谷、八ガ坪、鳥越、両国免)を造っている。 また事業の完成報告と今後の豊作を祈願し厳島神社を祀っている。 尚、開作への私財の投入は当時の費用で銀188貫目と言われている。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ このコースは猿喰交差点→(500m)石原宗祐碑→(500m)汐抜き穴→(600m)厳島神社→(200m)宗祐居士墓碑(石原邸内のため拝観確認が必要)→(400m)新地の交差点に出る。 田園の中で昔の偉人に思いを馳せるのもまた楽しい、一度訪ねてみよう。車でも行けますが道の狭い所もあり注意が必要です。 <記 佐野> |
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