| <コンシェルジェのトップへ |
|
|
“小倉生まれで玄海育ち、口も荒いが気も荒い 無法一代 涙を捨てて 度胸千両 生きる身の 男一代 無法松” と歌われた村田英雄のヒット曲「無法松の一生」を知らない人は全国でもまずいないと思う。小倉祇園太鼓で有名なその小倉の地に移り住んで早40数年。今は生まれ育った本州の下関よりも愛着のある私の故郷である。 小倉城周辺地図 |
| ◆ 小倉城 |
|
北九州市の中心地小倉北区にある平城で、別名勝山城とも呼ばれた。室町時代以後、大内氏、大友氏らによる攻防の舞台ともなったが、戦国時代は高橋鑑種(あきたね)、毛利勝信の城となった。その後、関ヶ原の戦いの功労で細川忠興が入国し、1602年(慶長7)に本格的に築城された。4層5階の天守は、最上層が下層より張り出した独特の様式で、「唐造り」と呼ばれた。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業を保護する政策を行ない又、外国貿易も盛んにした。更に、祇園祭りも誕生させた。1612年(慶長17)には宮本武蔵と佐々木小次郎が舟島(関門海峡)で決闘しているが、二人の決闘を許したのが藩主の忠興であった。細川忠興の奥方(玉)は、あの本能寺の変を起こした明智光秀の娘である。ガラシャ夫人(キリスト教の洗礼名)は戦国時代に非業の死を遂げるが、キリスト教の信仰にあつかったガラシャの死後、小倉に入国した忠興により、小倉で盛大なミサが行なわれたとのことである。昔の小倉城天守閣は1837年(天保8)消失の憂き目にもあったが、1959年(昭和34)再建されて今にその威容を誇っている。 |
|
|
|
| ◆ 武蔵と小倉 |
|
1632年(寛永9)細川家が熊本に転封され、明石城主、小笠原忠真が小倉に入国する。九州の「のど元」であった小倉は九州諸大名の監視役という特命を幕府から受けての入国であった。宮本武蔵は小倉藩(細川時代)の剣術指南役であった佐々木小次郎との決闘から14年後、小笠原忠真が小倉に入国する前の明石城主時代に、仕官を求められている。それを断った武蔵だが、代わりに養子の伊織を仕官させた。忠真が小倉藩主になった時、忠真に従い、伊織とともに再び小倉の地を踏んでいる。1637年(寛永14)伊織は、島原の乱での功績で小笠原藩15万国の筆頭家老までなった。武蔵は養子の伊織が家老だったこともあり、武蔵の生涯で最も長い7年間を小倉で過ごした。「吾家は小笠原家に遺し、吾技は細川家に遺す」と語ったと伝えられている。 伊織は1654年(承応3)小倉手向(たむけ)山に、養父武蔵の顕彰碑を立てている。 |
|
|
|
| ◆ 小倉の祇園は金がふる |
|
下関の有名な先帝祭(5月)が赤間神宮であるが、小倉祇園は7月中旬の暑い盛りに、小倉城のすぐそばの八坂神社を中心に行なわれる。共に不思議と天候に恵まれず、雨が降ることが多かった。当日、天気が良いと大変な賑わいとなり、十数万人の見物客で城下町は沸き返るようなお祭りとなるが、昔から「関の先帝、小倉の祇園 雨が降らねば金がふる」と言われ、商売繁盛、お賽銭が飛びかった。 又、江戸時代、城下町小倉は幕藩時代の大動脈・長崎街道を初め、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往環を含め「小倉の五街道」の起点となった。「常盤橋」が今もその佇まいを残している。江戸時代、九州の諸大名たちは参勤交代のため、この「常盤橋」を通って江戸に向かった。 アクセス:小倉城は新幹線小倉駅より徒歩15分。JR西小倉駅より徒歩8分。 車なら北九州都市高速・大手町ランプ・小倉駅ランプより5分。 (近くには最近できた近代の城リバーウオークも隣接) 筆者:小西(041222K5) |
|
|
|
…お問合せはこちら…
|