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今年のNHK大河ドラマは「義経」であるが、私のふるさと関門海峡が又注目を集めそうである。 関門海峡は山口県下関市と北九州市門司区に挟まれた海峡であるが、我々のみじかな場所に、歴史の流れを決めた海峡がある。 ☆「いまぞ知る みもすそ川の御ながれ 波のしたにも みやこありとは」 二位の尼(平清盛の妻)の詠んだ辞世の歌の石碑が、壇の浦の「みもすそ川公園」に立っている。 関門海峡を眺めていると、悲しいドラマがあったことを思い出させてくれる。 源平の合戦は1180年(治承4年)、源頼朝が平家打倒の挙兵を起こして始まった。 5年の間に石橋山の戦い(1180年)、富士川の戦い(1180年)、倶利伽藍峠の戦い(1183年)、宇治川の戦い(1184年)、一の谷の戦い(1184年)、屋島の戦い(1185年2月)に引き続き、最後の戦いが壇ノ浦の戦いである。1185年(寿永4年)3月、ついに源氏と平家両軍の五年間にわたる戦いに決着をつける日が近づいた。 和布刈公園周辺地図 |
| ◆ 源平最後の戦いが始まる(戦況はさてどちらに) |
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屋島を追われた平家の総大将・宗盛は安徳天皇と皇位のしるしである三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を守って瀬戸内海を西へ進み、弟の知盛が拠点としている長門の彦島にたどり着く。 後を追って義経の率いる源氏勢が平家最後の砦にじわじわと平家最後の砦に迫っていた。 屋島の戦いから1ヶ月、関門海峡の長府沖に二つ寄り添う「万珠・干珠の島」に源氏の船団が集結したことを知った平家は彦島を出て、九州、門司側の「田ノ浦」に船を集めた。指揮を執るのは宗盛に代わって、平家きっての戦略家といわれる知盛があたった。 義経が奇襲戦法を得意としていたが、機先を制し、真正面から平家得意の海上戦に持ち込む構えである。そしてついに源平最後の戦いが激流渦巻く関門海峡を舞台に繰り広げられた。 |
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| ◆ 源氏と平家の戦力 |
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両軍の兵船の数は、「平家物語」では、源氏三千四余艘・平家一千余艘となっている。 「長門本」では三千対五百、「源平盛衰記」は七百対五百、「吾妻鏡」では源氏八百四十余艘に対して平家五百余艘となっている。 「海の平家」を打ち負かすために源氏方も兵力の数で圧倒しようと平家と互角に戦える実力を備えてきたようにある。戦いは当初、東に向かう潮流に乗って平家が押し込み、源氏は最初に陣取った満珠・干珠の海域まで後退、防戦一方の苦戦を強いられた。 潮の流れが変わらないうちに一気に勝負をつけるのが知盛の計算だったが、踏ん張っていれば潮流がやがて変わることは義経にもわかっていた。 |
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| ◆ 源平合戦の決着 |
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義経の作戦はまたもやこうであった。相手の兵船の船頭を弓矢で狙い打って、船の自由を奪ってから斬り込むという奇襲戦法だった。 当時の船上では、武士と武士が名乗りあって戦うのが常識であり、非戦闘員の船頭を狙うことは水軍の作法ではありえないこと。これを野蛮と見るか、知略と見るかは別にして、勝つための義経の哲学かもしれない。こぎ手や舵取りを失った平家の船はいたずらに潮に押し流され、戦闘隊形を乱してしまった。そのうちに潮の流れが変わり、形成は完全に源氏方に傾いてしまった。寝返って源氏方につく豪族も出て勢いにのった義経の軍勢は逆に西向きに変えた潮流を味方にして、壇の浦まで平家を追い詰めた。 ついにこれまでと知盛は覚悟を決め、安徳天皇の御座船に乗り移り、母である二位の尼と妹の建礼門院にそのことを告げた。 ついに一門の最後をを悟った二位の尼は、孫に当たる八歳の安徳天皇を抱き、源氏が奪環をねらう剣と勾玉の神器を身につけて水中に投じた。建礼門院も続いたが、源氏の兵に熊手で掬い取られてとらわれの身となる。この間、一族は大将の知盛をはじめ、主だったものは次々と入水した。あるいは討ち死にし、海底に沈み、生きながらえたものは捕虜となった。その中には一門の総帥宗盛父子のすがたもあった。ここに栄華を極めた平家が壇ノ浦で滅亡したわけである。 *平家の一杯水=合戦で海に落ちた平家の武将が命からがら岸にたどり着いた時、わずかな湧き水を発見し、瀕死の体をひきずり、命がけで水を飲んだ。ところが夢中で二口目を飲むとそれまでの真水が塩水に変わり、こと切れたという伝説。(対岸の下関側にも伝説の場所がある。) アクセス:北九州の玄関口、小倉駅までは新幹線で移動。小倉駅よりJR鹿児島本線の終着駅、門司港駅まで約14分で到着。和布刈公園まで歩いて20分。 車での移動も可能。駐車場完備。 *筆者:小西(050306k6) |
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