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源平合戦は1180年、源頼朝が平家打倒の兵をあげて歴史の歯車が大きく動き始めた。平家一族は安徳天皇を奉じて京を明け渡し西国へ逃れて、一ノ谷合戦、屋島合戦で破れ、そして平家軍は瀬戸内海を西へ走り本州最西端の彦島に本陣を移した。 時、1185年3月24日早朝運命を決する壇ノ浦の合戦がスタートした。 リベンジを決意して平家軍は東流する潮に乗って序盤は源氏を圧倒、しかし、午後に入り潮流が西に変わり始めると接近戦となり、戦況は逆転。平家の敗北は決定的となった。二位の尼(清盛の妻)は孫にあたる安徳天皇を抱いて壇ノ浦に入水、総指揮官の平知盛も錨をつけて海に沈み、源平の5年に及ぶ戦いもここ壇ノ浦で終焉に至った。 この時から時代は平家から源氏へ、貴族政治から武家政治へ大きく転換し日本のターニングポイントとなった。 今回は3月の光風輝く中を壇ノ浦の地と安徳天皇を祀った赤間神宮を中心に画像拾いの散策を試みた。 赤間神社周辺地図 |
| ◆ 壇ノ浦から赤間神宮へ |
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海峡で一番狭い場所が本州・九州間は750mといわれ直ぐ手の届きそうな近さであり、その本州側が下関市壇ノ浦町である。 この場所から国道9号線に沿って西へ向かう(下関駅方面)と左手は海峡の渦潮がせまり最大潮流時には海というより川の表現がピッタリ、小さな釣り舟だと一気に流される源平の勝敗を分けた潮流だ。 この付近には現在でも合戦の文化遺産ともいえる壇ノ浦町、みもすそ川町、阿弥陀寺町などが地名で残っている。 15分ほどで右手に朱塗りの建物赤間神宮のシンボル「水天門」が見えてくる、海峡側には駐車場も完備し車での散策、参拝も心配は無い、海峡を挟んで対岸には門司港の街並みやレトロの建物、平杜知盛が城を築いた古城山も遠望できる。 国道から鳥居をくぐり、「水天門」を見上げると実に美しい!何でも竜宮城をイメージしているとか、この地が平家終焉の地という重い事象とは乖離して意義深い。 |
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| ◆ 神宮への参拝 |
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「水天門」を左手に向かうと幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、西日本で唯一の御陵(阿弥陀寺陵)に続く道になり御陵門前にでる、門扉には菊の御紋が歴史の重さと神々しさを感じさせる。 国道から直接御陵へは入れないが、こちらは御陵前庭へ降りられる、更にこの細道は日清講和記念館へも続く。 「水天門」から境内に入ると朱と白を基調に本殿や建物が艶やかで雅の造りは美しい、神宮内にはお宝物として「国指定重要文化財」「重要美術品」など多数収納されており、一部は有料にて拝観できる。 「安徳天皇は8歳で平家一門と共に壇ノ浦に入水し、その後天皇の尊体は阿弥陀寺に葬られた、この寺院は明治維新に至り阿弥陀寺を廃し天皇社と呼び、更に明治8年に地名により赤間宮、昭和15年に現在の赤間神宮に称号を変えた。」 |
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| ◆ 平家七盛塚を訪ねて |
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本殿正面より左手の木立の中に平家一門の墓「七盛塚」と「芳一堂」がある、日中でも木漏れ日もあるが薄暗く平家の悲哀に満ちた霊気が漂うようだ、塚の碑は自然石に刻んだ文字も風化し判読できない物もある、いずれにしても平家一門の鎮魂を目的に江戸時代に建立されたそうだが、小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」物語の舞台になった場所で、傍らに高浜虚子の句「七盛の墓包み降る椎の露」があり”平家哀れ”の思いは一層強くなる。 ここを訪ねて感じたのは、七盛塚は御陵を東軍からの防衛に当たり、今でも平家一門は安徳天皇をお守りしている、そんなロマンというか想いを抱いたが考えすぎだろうか。 赤間神宮を後に西へ向かうと連絡船唐戸桟橋へ数分で至る、歴史の中を散策した後に唐戸市場で新鮮な食材を探して歩くのも楽しい。 海峡にはテーマがたくさんある、あなたも海峡の旅人になって欲しい。 (記〜佐野) *************** 赤間神宮はバスの利用もも便利、日中は両方向に10分間隔で運行あり <源平合戦、壇ノ浦の戦いを六回シリーズで展開してきましたが又次の機会に視点を変えて紹介したいと思います、お楽しみに・・・> |
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