甘木・朝倉の歴史



〜甘木・朝倉の歴史 古代編(1)〜
 記紀(古事記と日本書紀の総称)には全国各地の風土記や伝承が記されているが、この甘木・朝倉地方も登場している。
 戦前には教科書にも登場していた神功(シンコウ)皇后伝説の件である。
 神功皇后は第十四代仲哀天皇(足仲彦尊−タラシナカヒコノミコト:日本武尊−ヤマトタケルノミコト−の第二子)の皇后で、名を息長足媛(オキナガタラシヒメ)といい、開化天皇第五世の孫・息長宿禰(オキナガシュクネ)王の女(ムスメ)である。
 当時、息長氏は現在の滋賀・京都を中心に隆盛を極めており、継体天皇の大和入りを助けたのはこの一族という説もある。
 仲哀天皇二年二月、各地からの朝貢を受ける中、熊襲(クマソ)は朝貢(年貢を納めること)してこなかった。
 熊襲とは九州南部(熊本県〜鹿児島県の地域)に勢力を持つ種族で、神武天皇の東征に"久米部の兵"として抜群の功をたてたが、度々叛いた(はむいた)ので景行天皇の時、日本武尊に一度、征伐されていた。
 仲哀天皇は、おりから熊襲は天皇に対して礼を欠き、朝貢を怠っていたので、亡父に習い自ら征伐に乗り出す事にした。
 途中で皇后と合流し、筑紫の橿日宮(香椎宮)に赴いた仲哀天皇九年、天皇が急死する。
 皇后は身重であったが、亡き仲哀天皇の遺志を継ぎ、熊襲征伐の軍を進めた。熊襲の本拠地である南部九州には武将・鴨別(カモノワケ)を遣わし、自らは北部九州の反乱勢力である羽白熊鷲(ハバクノウタカ)の掃討に赴いた。鴨別はほどなく熊襲征伐を終えている。
 羽白熊鷲は、荷持田村(ノトリタノフレ[甘木市野鳥])から鬼ヶ城山(甘木市荷原)にかけた山間部を根拠地に勢力を有していた。
 神功皇后は軍勢を率いて御笠川沿いに南下し、砥上岳(朝倉郡夜須町)の南麓に中宿 (本陣)が置かれた(中津屋神社)。以来、この地は中津屋と呼ばれている。
 その後、松峡宮(マツオノミヤ[朝倉郡三輪町栗田―栗田八幡宮])まで進み、物見をした(目配山)後、作戦を練っている。
 筑後川の北側1キロの平野部に、巻貝の河貝子(カワニナ)を集めて城を築き(甘木市蜷城)、熊鷲の目を引き付けておいて、秋月〜下渕の后の森、宮園の森、開屋の森、三府の森、会所の森、宮岡の森、梅園の森の七ヶ所に陣屋を設け、進攻した。
 しばしば戦闘を繰返しながら、鬼ヶ城山へ追い詰めて行っている。
 神功皇后の軍勢は、佐田川中流の山間部で矢箟(矢の幹)の材料となる篠竹を刈り取り(甘木市矢野竹)、熊鷲の一味を殲滅している(血が木の枝に飛び散った為、「血の枝」、後に転じて「角枝」になった)。
 熊鷲は山沿いに北方に逃げ、古処山(コショサン)の北東6キロにある益富山で討伐された(大熊山)。
 神功皇后は古処山南麓へ戻り、側に仕えていた者達に、「熊鷲を討って心安らかになった」と言った。この為、その地を「安(夜須)」と呼ぶようになった。


〜秋月の歴史 秋月氏・黒田氏編〜
 秋月の歴史は古く、日本書紀の神功天皇の件で地域として出てくるのが最初である。
 『秋月』の名が出てくるのは13世紀に原田種雄(秋月氏祖)が入領する時で、江戸時代に なるまでの約400年間秋月氏によって治められてきた。
秋月氏は大蔵氏の支流にあたる。大蔵氏は後漢霊帝の玄孫阿多倍王が来朝し、帰化したものの末裔と言われる。大和朝廷の官物を納めた蔵(大蔵)の吏となり、その功によって大蔵姓を授けられ、この姓を称するようになった。
 天慶四年(941)に伊予の藤原純友が反乱を起こす(天慶の乱)。大蔵春実は、朱雀天皇から錦の御旗及び天国の短刀を賜り、追捕使 小野好古を助け共に藤原純友を追討した。その勲功 によって征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職となって 太宰府に近い筑前三笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部九州の守備にあたった。
 また、錦の御旗に大和撫子の紋があったことにより、大和撫子を以って家紋とするようになった。後に山麓の原田の庄に居館を造り、原田氏を名乗る。伝統古き文臣から出て、武門に帰するに至ったのである。
 建仁三年(1203)に原田種雄は武田有義の謀反を鎌倉幕府に通告した功により、将軍源頼家から筑前秋月の庄を拝領し、以来秋月氏を称するようになる。
 秋月氏は、種実の時代(永禄〜天正年間)に最盛期を迎える。その領土は11郡36万石に及んだと言われ、北部九州の有力な戦国大名になった。
 天正十五年(1587)に秋月種実は豊臣秀吉の九州平定の大軍と対峙する。偵察で秀吉の軍容 に驚いた恵利内蔵助暢尭は、敵対すべきでない事を進言するも聞き入れられず、諌死をとげるが、両軍は岩石城にて会戦する。このとき秀吉は短期決戦をいどみ、守兵を悉くなで斬り にし、城は3日で落ちたと言われる。衆寡敵せず、種実はついに降伏する。この時種実は嗣子種長と共に剃髪し、袈裟衣に身を包んで秀吉本陣に降り「楢柴の肩衝」を献上してゆるされたが、新納院諸県郡櫛間(串間市)へ転封される。関ケ原の戦いの後に日向財部(高鍋)へ移封。
 その後秋月の領主となったのは黒田氏で、寛永元年(1624)に黒田長政の三男長興が筑前国 5万石を分領し、秋月城に入る。長興は寛永十五年(1638)の島原の乱鎮圧に参加して殊勲を 立てる。
 天明五年(1785)に黒田長舒が封を継ぐ。長舒は日向高鍋藩主秋月種頴(上杉鷹山の兄)の次男 で、葛や和紙などの今日に繋がる産業を奨励した。
 明治の世になり、明治九年(1876)、廃刀令や俸禄停止に旧士族が反発。神風連の乱に呼応して秋月の乱が起きる。各地の士族に決起を呼びかけるも応じる者なく、小倉鎮台に鎮圧 される。
 秋月の激動は去り、静かな時間と共に現在に至る。







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