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| 道後にある鷺谷墓地には多くの偉人たちが眠っております。 |
| ■ 伊佐庭如矢翁の墓 | |
伊佐庭如矢翁の墓
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伊佐庭如矢(1827〜1907) 文政10年9月12日町医者成川国雄とマキの三男として誕生。16歳の時松山藩家老管良弼の用人阿部康男の養子になり、19歳の時長女射狭と夫婦になる。明治元年、如矢41歳のとき阿部家の家督を長男おのえに譲り、自ら別籍して平民となり、伊佐庭の姓を名乗った。後、高松支庁長(明.10)、高松中学校長(明.16)、金毘羅宮の禰宜(明.19)を務め、明治23年、如矢62歳の時、道後の有力者鮒田市蔵 、富田喜平等に懇請され、道後湯之町の初代町長となる。道後温泉本館の改築、道後鉄道会社の創設等、数多くの偉業を遺した。筆塚の 禿毫庵碧梧桐(とくごうあんへきごどう)は雅号である。 禿毫とはすりきれた筆の事、文筆家、碧梧桐とは青桐のこと、青桐は多くのものに加工されるすばらしい素材である事から、多くの可能性を秘めた才能豊かな人をあらわす。 |
| ■ 白川義則陸軍大将の墓 | |
白川義則陸軍大将の墓
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白川義則(1879〜1932) 秋山好古の後輩。昭和2年田中内閣の陸軍大臣を務める。昭和7年4月29日天長節祝賀会の壇上、爆弾テロに遭い重傷を負う。大手術治療の効なく5月26日に死亡。 |
| ■ 秋山好古の墓 | |
秋山好古の墓
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秋山好古(1859〜1930) 松山藩士秋山久敬の三男、松山の中歩行町(現大街道三丁目)に出生。小さい時から学問好きだった。学校へ行かせてもらえないという貧しさにも負けず、銭湯でアルバイトをして独学で勉強。一時教職にあったが、生活費と授業料が要らないと言う理由で軍人の学校へ進む。1877年陸軍士官学校、1883年陸軍大学校をへて騎兵科を志す。 1887年久松伯爵の補導役として、騎兵の勉強の為フランスへ4年半ほど留学する。留学中、発疹チフスを自力治癒した話、陸軍大臣山県有朋からの預かり品を酒に酔って汽車の中で盗まれた話は有名。帰国後日清戦争では騎兵第一隊長として従軍、後に陸軍乗馬学校長となり、揺籃期の騎兵科を強化発展させ、騎兵の父と仰がれた。日露戦争では、少将として騎兵第一旅団長となり、世界最強といわれたコサック騎兵を相手に育成早々の騎兵を駆使して渡り合い、遼陽、奉天会戦で敵の退路を押さえ大成功をもたらした。45歳の時である。沈着豪胆、弾丸雨飛の中で泰然自若、酒杯を含んで作戦を練った。 退役後は懇願されて故郷松山の不良少年養成所といわれた北予中学の校長を務め人生無休が平素の主義のとうり在職6年3ヶ月、一日も欠勤する事もなく、怒った顔を見せることもなっかた。糖尿病に起因する年来の神経痛で足の痛み激しく、惜しまれて昭和5年4月に引退。東京で療養したが、脱疽を併発して左足を切断、それが原因で永眠(72歳)した。墓畔には「永仰遺光」の標石が立ち、老桜が春毎に美しく咲き乱れる。 |
| ■ 中村草田男の墓 | |
中村草田男の墓
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中村草田男(1901〜1983) 父の赴任地中国(清国福建省アモイ)生まれ、松山で育つ。虚子の勧めで東大俳句会に入り、秋桜子や素十を 知る。社会や人間の内部に心を向けた俳句を作り、「人間探求派」と呼ばれた。新しい視点を伝統的な俳句に調和させていく点に彼の生き方があった。戦後、俳誌「萬緑」を創刊。代表句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」がある。 |
| ■ 桜井忠温の墓 | |
桜井忠温の墓
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桜井忠温(1879〜1965) 世界的名著「肉弾」の著者。日露戦争に郷土松山歩兵第22連隊の旗手として旅順攻囲戦に加わって奮戦した。明治37年8月24日未明東鶏冠山望台砲台突撃に連隊は全滅し、忠温は戦死体と誤られるほどの重傷をおったが、「死中再生」歩行も困難な傷病の身をもって原隊に復帰した。療養中不自由な左手で書いた日露戦記「肉弾」が明治39年4月に出版され全国民を感動せしめ多大の反響を呼んだ。明治天皇は忠温に対して破格の単独拝謁を賜った。「肉弾」は忠温の新造語である。英訳を始め独仏伊露など世界16カ国語に翻訳され、セオドール・ルーズベルト米国大統領は賞賛の書簡を寄せ、 ドイツ皇帝は全軍将兵に読ませた。国内でも千数百版を重ね世界的記録をつくったが、一銭の印税もとらなかった。 |