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| 道後公園は中世の守護河野氏の居城跡で、建武年間(1334年ころ)から豊臣秀吉の四国征伐に破れ城を開城するまで約250年間伊予の中心として栄えていた。中央の小丘は伊佐庭(いさにわ)の岡とも呼ばれ、聖徳太子が道後に来浴の際、明媚な風光と良質の温泉を称える碑を残した場所とも伝えられている。伊佐庭の由来はサニワ(神託を得る聖域)からであるとの説もある。近年、再整備され湯築城跡としてオープンした。公園は24時間オープンし、生活道とは隔絶されたすばらしい環境の中、ウォーキングやジョギングの周回コースとなり道後温泉の入浴とともに健康増進の場として見直されている。公園内には子規記念博物館をはじめ、復元された武家屋敷や中世庭園、資料館、他に句碑、記念碑、頌徳碑(ショウトクヒ)などがある。今回は公園内にあるこれらの建造物などをご紹介いたします。 |
| ■ 展望台 |
![]() 道後公園展望台 |
| 湯築城の本殿があったところである。標高約72m、展望台からは、松山平野が見渡せ、条件がよければ遠くには瀬戸内海の島々も望むことができる。 |
| ■ 湯築城址由来 |
![]() |
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昭和34年12月に地元お菓子屋の一遍堂、新田氏によって寄贈された。 「この地は元伊佐庭岡と呼び今から千3百余年の昔聖徳太子が鶴駕を駐め道後温泉碑を建てたてられたところである。後建武年間に至り河野氏はその居を高縄山麓の河野郷からここに移し城を構えて湯築城と称した。蓋し伊佐庭岡は湯築岡とも呼ばれたからであろう。爾来同氏の本拠となっていたが天正十三年豊臣氏の征討により滅土の悲運を見た。それから多少の沿革を経て慶長七年加藤嘉明が松山城を築くに当たり城址の礎石を勝山に搬び去って後は全く廃虚となり藩政時代には修竹鬱々たる鳥鷺の棲みかと変わりはて世にお竹薮と称せられた。然るに明治二十一年愛媛県はこれを公園とし大に景観を整え花卉を植えて四民聚楽の所とした。かくて昭和二十八年に至って県立動物園が設けられた。惟ふに河野氏累世五十余代その中には水軍の将として外寇を斥壌した武将河野通有と念仏絶対主義の時宗を創めて衆生済度の実を挙げた聖層一遍上人の如き偉人を輩出した。共に我が郷土の栄誉と称すべき事である。」 昭和三十四年十二月 建立寄贈一遍もなか本舗 一遍堂主 新田兼市 |
| ■ 岩崎神社 |
![]() 岩崎神社鳥居 |
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道後公園の東側入り口から少し歩いたところには岩崎神社がある。伊佐爾波の庭先にあることから"庭先"神社と呼ばれ、それが訛って"岩崎"神社となり、そのまま町名になったとか。 昔、ある男が東堀の竹薮の竹の子を堀りにきた。ひとくわ打ち込んだところ、おかしなことに眠気がさしてきた。竹の子堀りにきて寝てしまうのでは面目が立たないと、そばの木の根元にすわった。腰の煙草入れから煙草を出して一服吸うと、吸殻をぽんと木の根にはたいた。すると木の根がぐらりとゆらいで、よく見るとそれは大きな蛇であった。男はそれっきり気を失って大蛇に飲まれて死んでしまった。そのあともこの大蛇に飲まれて死んだ者は何人もあったという。その蛇の長さは、ずっと義安寺まであったという。 岩崎神社はこの蛇を祭ってあるという。 「ミイさん、ミイさん」といって大事にして、今でもこの岩崎さんにお参りする人がいる。信心すれば脳、神経痛に効くと言われる。祭神が蛇なので卵を奉納すれば良いと言われる。 また、岩崎神社は河野氏の祖小千命を祀っている。小千命は白人明神と崇敬され、俗に「白蛇」といわれている。古書には「その神両耳白蛇位なり」とある。 そのほか河野家代々の霊、その後、土居通増、得能通綱(星が岡の戦いで有名な南北朝時代の勇将)も祭神として加え祀られている。 湯月城を建武年間(1334〜41)河野通盛が築城した当時、庭の一隅に小祠を建てたのが始まりだという。 豊臣秀吉の四国征伐に敗れ、廃城となった後、 元禄15年(1702)、竹奉行の安田又之允源義行が、神霊を古城の南で拾って岩崎大権現を再興したという。 |