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| 道後公園湯築城跡紹介の続きです。 |
| ■ 湯釜薬師 |
![]() 湯釜薬師側面 |
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天平勝宝元年(749年)奈良時代の作と云われ高さ157センチ、直径166センチ花崗岩製の円筒である。 その上の蓋の部分、宝珠(ほうじゅ)には正応元年(1288年)河野通有の依頼で一遍上人が「南無阿弥陀仏」の六文字を書いたといわれている。 また、側面には享禄四年(1531年)に河野通直が尾道の石工に命じ、上部正面に薬師瑠璃光如来の像、側面に天徳寺の徳応禅師による温泉記を彫らせている。 |
| ■ 湯釜薬師 |
![]() 湯釜薬師正面 |
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道後温泉は古来より、大正3年まで、現神の湯の東側男性浴室直下と神の湯女性浴室中央(元の養生湯)直下の2箇所の岩盤の割れ目より自然湧出していた。つまり、湧出口の直上に浴槽をこしらえて、湯釜をとおして温泉を浴槽に溜め、利用したのである。この湯釜は一の湯の湧出口の割れ目上に据えられていたもので、リング状の御影石を積み重ねたもので、この下には数段は存在したであろう。湯釜の底部と岩盤との接地部分は砂やにかわで固められ防水処理が施されていた。浴槽への湯口は上部より3層目と2層目の間(現台座)との間にあったと考えられる。湯釜の上部からは筒抜けで湧出の様子が観察されたものと考えられる。 この湯釜は、明治27年(1894年)に現在の温泉本館ができるまで、使用されていたが、昭和25年に道後公園に移動、湯釜薬師として祭られた。以来8月1日は湯釜薬師祭として市民に親しまれている。昭和29年に県の重要文化財に指定された。 |
| ■ 小林一茶句碑 |
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小林一茶句碑 |
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寝ころんで 蝶泊らせる 外湯哉」 小林 一茶 (1763-1827) 小林一茶は、宝暦十三年(1763)、いまの長野県信濃町の農家の長男として生まれた。三歳のとき母に死別。継母、異母弟との不仲や、晩年は妻子に先立たれ、体の不調、自宅の火災など、苦しい事、悲しい事が重なった。一茶の俳風は、自らの生活を深く見つめ、心情を吐露した作品が多い。生涯に二万句あまりを詠んだ。 「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」「我と来て遊べや親のない雀」など一茶のやさしい心情がよくあらわれている。 一茶は家庭的に不遇であったが、俳句には特別の才能があり、十三歳のころから始め、十五歳のころ江戸に出て、当時江戸の俳句界で力をもっていた二六庵竹阿の門をたたき弟子になった。二十九歳の頃から俳句研究のため、旅にでた。 寛政7年(1795),一茶は,その師二六庵竹阿の旅の跡を慕い,松山の俳人栗田樗堂(くりたちょどう)らを訪ねて,松山に来た。その旅日記(寛政7年紀行)によれば同年2月1日のところに「道後温泉の辺りにて」と前書きしてこの句がある。 一茶の来遊は寛政7年(1795)と翌年の二度にわたり,一茶は樗堂と意気統合し、多くの句を残した。寛政8年(1796)には半年以上に渡って樗堂宅(二畳庵)に滞在し、この交遊は並々ならぬものがあったと想像される。 |