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参考:21世紀へ残したい香川−四国新聞社 江戸時代、地方領主の高原家が改易された後、直島は天領(幕府直轄)地となったので、一般的には禁じられていた庶民の娯楽が開放され、歌舞伎や能、そして現在では女性だけで承継されている「直島女文楽」の原形になる人形浄瑠璃などが盛んに上演されました。 直島での文楽の起源は、八十八夜の鯛網の時期に網元が淡路島から一座を招いて琴弾地の浜で興行をしたことです。(淡路島の人形浄瑠璃が文楽のルーツと言われています。鯛網漁は大正10年の初夏に岡山の友人に誘われた石川啄木が見物に来て『島三題』にしたためています) 現在のように人形の使い手が女性だけになったのは昭和23年以降。下火になりかけていた文楽熱を女性3人の手により再興し、現在に至ります。 上演依頼は直島町教育委員会まで 087−892−2882 |
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人形1体を3人で操るのが一般的で、主遣い(おもづかい)が頭と右手、左遣いが左手、足遣いが両脚を操作します。 浄瑠璃は、三味線を伴奏として太夫(語り部)が劇中人物の台詞や仕草などを、「歌う」と言うよりは「語る」もので、人形劇と浄瑠璃をワンセットで人形浄瑠璃または文楽と呼称します。 浄瑠璃が文楽と呼ばれるようになったのは、明治時代に大阪で「文楽座」のほかに「彦六座」「稲荷座」「明楽座」「堀江座」「近松座」などという人形浄瑠璃小屋が出来たり消えたりしながら、大正末には「文楽座」ただひとつになたっため、文楽が浄瑠璃の代名詞になりました。 |
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| ■ 傾城阿波の鳴門〜十郎兵衛住家の段より |
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読み方は「けいせいあわのなると〜じゅうろべいすみかのだんより」。女文楽の人達は「あわなる」と略しています。 【粗筋】盗賊銀十郎と名乗る十郎兵衛の家で妻のお弓が留守番をしているところへ、十郎兵衛や盗賊仲間に追手が迫っているとの知らせが届く。お弓が夫の無事を案じているところへ巡礼の少女がやって来て、話を聞くうちに少女は故郷に残してきた実の娘おつるだと気がつくが、追われる盗賊の身であるため親子の名乗りができない。 お弓は、おつるを厄介ごとに巻き込むまいと一旦は帰すのだが、もう二度と会えないかもしれないと思い直すと居ても発ってもいられない。 直島女文楽の上演は、娘の去って行った後お弓が畳につっぷして泣き崩れ、玄関から外に出て居ても発ってもいられない思いで彼方を見やる姿で終わりますが、浄瑠璃の続きはこうなります。 おつるは道中で偶然にも十郎兵衛と出くわす。十郎兵衛はおつるを家に連れ帰り、実の娘とも知らず無理やりお金を奪い取ろうとして、物語は予期せぬ結末に向かう。 |
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| ■ 伊達娘恋緋鹿子〜火の見櫓の段 |
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読み方は「だてむすめこいのひがのこ〜ひのみやぐらのだん」。 【粗筋】八百屋久兵衛の娘お七は火事で避難した吉祥院の小姓吉三郎に思いを寄せるが、吉三郎はその主が盗まれた名剣を探し出す期限を迎え、切腹が今宵に迫っていた。 剣のありかを知ったお七は盗み出して吉三郎の元へ届けようと決意するが、暮六つの鐘を合図に町の木戸が閉まり吉三郎に知らせることすらできない。例外的に木戸が開くのは火事の時であるが、火の見櫓の半鐘をみだりに打てば火刑(ひあぶり)に処せられると承知で、お七は吉三郎に剣を渡して命を救いたい一心で雪の降る中火の見櫓に駆け上がり半鐘を打ち鳴らす。 という、純情な娘の悲恋の物語。 どこかで聞いたような話だと思われるかも知れません。放火の罪で処刑された八百屋お七がモデルです。 1682年(天和2年)の暮れ、火事で焼け出されてお寺に避難した江戸・本郷の八百屋の娘お七はそこで小姓と好い仲になります。お七一家は翌年正月に新しい家に戻りますが、小姓のことが忘れられないお七はまた火事になれば再会できると考えて放火をしました。 当時放火は殺人よりも重罪だったので、1683年(天和3年)3月29日、お七は鈴ケ森で火刑に処せられます。 放火は極刑に値する悪事とは一途な恋心のゆえと、わずか16歳の少女が火あぶりに処せられたことから江戸庶民の同情をかい、後世に小説や浄瑠璃の題材にされ放火の行為は火の見櫓の鐘を鳴らす場面に置きかえられました。 |
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