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近くて遠い・・・・そんな表現もありますが、直島と豊島は同じ瀬戸内海で同じ香川県に属する島どうしなのに、直接の行き来ができる航路が無いためもあって、あまり交流はありません。 (昔、フェリーが直島と豊島を結んでいた時代もありましたが) 1999年に豊島産廃を直島で処理する香川県の案が浮上し、翌2000年に正式決定、2003年から産廃処理施設が正式稼動するに至り、「豊島ってどんなところだろう?」「不法投棄の現場はどうなっているのだろう」という興味が湧きました。(コンシェルジェを拝命して2番目にUPしたコンテンツがその施設=直島環境センターです) そこで、2003年8月に一度豊島に行き、デジカメ写真も撮ってあったのですが、直島との関連はあってもエリアは違うのですから、直島コンシェルジェのコンテンツで紹介するのが適当かどうかの判断はできずにいました。(小豆島・豊島コンシェルジェさんへの越権行為とも思えるし) 結局、撮影から2年余りが経ち、当時案内をしてくれた人の話もうろ覚えになってしまいましたが、UPすることにしました。直島と豊島、そこには100年間に二度「歴史は繰り返した」奇しき因縁があり、両者を比較することで二つの島への理解も深まるからです。 |
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すぐ隣なのに見知らぬ隣人。 兵庫県警の摘発によって産廃不法投棄事件が明るみになり、全国規模のニュースになるまで、すぐ隣の島とは言っても筆者も関心はなかったというのが正直なところです。 豊島から直島まで漁船で魚を売りに来る老人がいました。 直島出身の元郵便局員で豊島に赴任していた人(あちらでは局長だったかも?)がいます。 直島の東海岸から豊島が見えます。 昔、仕事の関係で小豆島での会合に行くことがありましたが、宇野港からフェリーで豊島を経由して小豆島の土庄港に行くので、その道中に船窓から眺めて通り過ぎる場所。 豊島についての知識はそれがほとんど全てで、実際に上陸したことはありませんでした。 |
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フェリーターミナルの2階が交流センターになっていて、豊島側の産廃前処理施設の見学受け入れや豊島観光の相談に応じています。 当日、アポ無しで行ったところ、何かのイヴェントの準備でみんな忙しくしていたものの、一人が親切にも車でほうぼう連れて回ってくれました。 産廃を直島に送り出す豊島側の前処理施設である中間保管・こん包施設の外観デザインはグレーに赤色のライン。赤は豊島の太陽をイメージ。 (直島側の中間処理施設である直島環境センターは、直島の海を表した青に黄色のライン。両島間を行き来するダンプトラックやコンテナには、「循環する資源」をイメージして赤と青をつなぐグラデーション・カラーとなっています) 赤とグレーの施設は、直島の東海岸からも肉眼で見えます。南寺から東に向かって県道を上がり、突き当たりのT字路の辺りから積浦へ南下するルートに沿って見通せます。 |
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(写真4)その昔、弘法大師がのどの渇きを潤すため地面を掘ったら水が湧き出したと伝えられている場所です。島の水道水源として、またこの付近の田畑への灌漑用水としても利用されています。豊島では瀬戸内海の島には珍しく稲作が古来より栄え、自然の恵みが豊かなことから豊島と名づけられたという説もあります。 (写真5)オリーブ園。小豆島でおみやげとして売られているオリーブの半分以上が、豊島の東洋オリーブ園で造られています。 この写真の場所が東洋オリーブ園の一部なのか、別のオリーブ園なのかは不知です。 (写真6)豊島の産廃投棄現場近くの海岸から見た直島。直島諸島の他の島々、井島、家島、向島などの向こう側、製錬所の煙突が立っているのが直島です。 (写真7)幕末から明治にかけて西日本屈指の材木商として栄えた片山家の邸宅。現在は無人で入れませんが、『長屋門』というお城の門のような建築様式を備えた江戸時代末期の建築物で、土庄町指定文化財になっています。 門の両側が長屋となっており、そこに家臣や下男を住まわせたそうですが、使用人のための銭湯も構えられ写真には写っているのはその煙突です。 (写真8)片山邸の主庭には『大ソテツ』と呼ばれる樹齢200年の大きなソテツがあります。片山家の祖先が琉球から持ち帰ったと言われて、香川県指定の天然記念物です。 (写真9)瀬戸内オリーブ基金第1回記念植樹大会(2000年)の時に、不法投棄現場近くに参加した著名人の名前とメッセージの入った植樹記念碑が3本立てられました。 写真は、直島のベネッセハウス、地中美術館、家プロジェクトの南寺、来春(2006年)オープンする新ホテルの設計でお馴染みの安藤忠雄氏の記念碑。 大正時代、豊島は特産品の豊島石と豊かな水源による稲作で繁栄し、直島は凶作と伝染病などによって農業・漁業が不振で財政難にありました。 当時の技術では煙害が避けられなかった銅製錬は、工場の排出する煙が住民に与える影響が少なくて済むよう、本土から離島への進出を探っていました。本土なら住宅密集地があるけれど離島であれば煙は風に流されて海上で雲散霧消し地元への害は少なくて済むというわけです。 1916年(大正5年)、豊島に白羽の矢を立てた三菱マテリアルの前身三菱合資会社は、時の豊島の大地主片山家によって工場進出を断られ、直島に誘致されることに。 その後、片山家は斜陽化、豊島は飛躍的な発展は得られなかったものの豊かな自然は守り、直島は当時豊島より少なかった人口約2000人が一時は7000人以上に増え、銅製錬で隆盛を極めたものの自然は一時期損なわれました。 豊島は小豆島土庄町に吸収合併、直島は製錬所の税収を背景に単独一町を貫きました。 84年後の2000年(平成12年)、不法投棄現場にされた豊島は産廃処理施設の地元建設を拒否、対して再び不況期にあり製錬所の撤退案さえ出ていた直島が産廃処理施設を受け入れ、リサイクル事業に活路を見出そうとします。 奇しき歴史のリフレインです。 |
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